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タロットと紫微斗数はどちらが当たる?

約7分

心に何かひとつ引っかかっていることがあるとき、人はどこかに問いを預けたくなるものです。友人は「タロットを引いてごらん、いまどう動くべきか、札が教えてくれるよ」と言い、別の人は「紫微斗数(しびとすう)で命盤(めいばん)を組んでもらうといい、一生の来し方行く末が見えるから」と勧めます。どちらにも「当たった」という声があり、どちらにも半信半疑の声がある。そのあいだに立って、ふと問いたくなります——タロットと紫微斗数は、いったいどちらが当たるのだろう、と。

この記事は、まず正直に申し上げるところから始めます。じつはこの問いは、向きが少し違っているのです。タロットと紫微斗数は、同じ品物の銘柄違いではありません。まったく別の問い方をする、二つの営みです。一方は、いまこの瞬間に吹く風に耳を澄ませ、もう一方は、一生を写しとった星図を静かに眺める。両者を並べてどちらが当たるかを競わせるのは、聴診器と地図を並べてどちらが役に立つかを問うようなもので、答えはいつでも「何を知りたいのか」次第なのです。

ですから、急いでどちらかの側につく前に、それぞれが何であり、何を得意とし、どのような仕組みで動いているのかを、まずゆっくり見きわめてみましょう。それが腑に落ちれば、いま抱えている迷いをどちらに預ければよいのか、おのずと見えてくるはずです。

タロット——いまを吹く風を聴く

タロットは七十八枚の札からなる一組で、数百年前のヨーロッパに生まれ、やがて占いのための一つの言語として育っていきました。問う人は心を静め、問いを胸に置いて、札を切り、引きます。引かれた数枚はスプレッド(展開法)にしたがって並べられ、占い師が札の意味と直感を頼りに、いまの局面のかたちを読みとってゆくのです。

タロットが得意とするのは、「いま」です。それは耳をいまに寄せて、風がどちらへ吹いているかを聴くような営みです。この仕事を受けるべきかどうか、この関係はいまどこで滞っているのか、自分がほんとうに望んでいるのは何なのか。札が言い当てるのは、天の機密というより、あなた自身がまだ言葉にしていなかった胸のうちであることも少なくありません。タロットはそれを卓の上に広げ、正直に向きあわざるをえなくしてくれる。そこが、この占いの優しくも鋭いところであり、日本でもタロットが長く深く愛されてきたゆえんでしょう。

そして、読むのが「いま」であるからこそ、タロットの答えは流れるように変わります。今日引くのと来週引くのとでは、出る札は同じではありません。占い師が替われば、同じ札からも違う細部が読まれるでしょう。それは当たらないということではなく、そもそもそういう性質のものなのです。風はもともと絶え間なく変わるもの。風を聴く人が聴きとるのは、当然、その一瞬の風なのです。

紫微斗数——算出される一枚の星図

紫微斗数は、別の道をゆきます。札は引かず、霊感にも頼りません。必要なのは、旧暦(きゅうれき)の生まれ年・月・日・時刻だけです。これらがそろえば、千年伝えられてきた法にしたがい、一歩ずつ命盤を導き出すことができます。命宮(めいきゅう)はどこに定まるか、十二宮(じゅうにきゅう)はどう並ぶか、数々の星曜(せいよう)はどの枠に落ちるか、四化(しか)はどこへ働きかけるか——すべては算出されるものであって、偶然の入りこむ余地は一分もありません。

これは、一つの大切なことを意味します。同じ生まれ時刻であれば、誰が組んでも、どの時代に組んでも、出てくるのは同じ一枚の盤だということです。あなたの命盤は、札を引く手の運にも、占い師のその日の調子にも左右されません。指紋のように、生まれたその瞬間から定まっているのです。違いが出るとすれば読み手の力量の深浅だけで、盤そのものは、いつまでも同じ一枚です。

そしてこの一枚の背後には、千年かけて築かれてきた演算の殿堂があります。その源は五代から宋の初めの陳希夷(ちんきい)に発すると伝えられ、歴代の術者が補い磨いて、今日の姿となりました。十二宮はそれぞれ人生の一面を受け持ち、百を超える星曜(あわせて百八星と総称されることもあります)はそれぞれに性情を備え、四化は底を流れる潮のように盤の全体を引き動かします。さらに奥へ進めば、大限(だいげん)・流年(りゅうねん)・流月(りゅうげつ)・流日(りゅうじつ)——十年、一年、ひと月、一日と、幾重にも入れ子になった時間の目盛りが、一生の律動を細かく刻んでゆきます。卓上に札を広げる直観とは異なる、東洋の知恵が千年にわたり幾層にも演算を重ねてきた蓄積が、ここにあるのです。

「引く」と「算出する」——奥にある違い

二つを並べてみると、違いがはっきりします。タロットは「引く」ものです。どの札が誰の手に落ち、どの順で開かれるか、そのこと自体が占いの一部であり、直感と機縁が大きな役を演じます。紫微斗数は「算出する」ものです。生まれ時刻から星図まで、一歩ごとに法があり、拠りどころがあり、誰が法のとおりに推しはかっても、結果は必ず同じになります。一方は芸に近く、一方は学に近いのです。

照らし出す範囲も違います。タロットが答えるのは「いま、この選択」——鮮明で即時の、一枚の断面です。紫微斗数が広げるのは、一生の見取り図です。生まれ持った性情の下地、財と仕事の器、恋愛のなかで繰り返し現れる課題、そしてそれらが歳月のなかでいつ起こり、いつ静まるのか。断面と見取り図は、そもそも同じ種類のものではありません。だからこそ、どちらかがどちらかに取って代わる、という話にもならないのです。

計算ずくのものは味気なく、神秘は移ろうものの側にある——そう思われがちですが、紫微斗数はその逆をゆきます。この学問の神秘は、まさにその厳密さの内に潜んでいるのです。十二宮は互いに引きあい、星曜は互いに照らしあい、四化が幾重にも働き、その上に大限と流年が層また層と重なってゆく。深く算するほど、山並みの奥にさらに山が現れます。タロットの神秘が夜にひとすじ吹き過ぎる風だとすれば、紫微の神秘は古い天文台に似ています。石段を一段また一段とのぼるほどに、見わたす星空は深く、遠くなるのです。

ここで、あらためて申し添えなければなりません。以上に述べた違いは、どの一つとしてタロットを低く見るものではない、ということです。タロットを愛する人は、往々にして自分と真剣に向きあう人です。両方を使い分け、それぞれの長所を汲む人も少なくありません。深浅と長短を見分けるのは、問いを正しい場所へ届けるためであって、一方を持ち上げ、一方を貶めるためではないのです。

いつ札を引き、いつ盤を見るか

違いがわかれば、使い方にもおのずと分別がつきます。目の前に、急いで決めなければならないことがある——明日の面接に行くべきか、二つの案件のどちらを先に受けるか、この一言をいま伝えるべきか。こうした「いま」の問いには、タロットを一組引くのがよいでしょう。いまの状況と心の向きをすばやく照らし出し、絡まった思いを卓の上に広げて見せてくれます。

けれども、問いたいのがもっと長い射程のことなら——自分はどの道に向いているのか、この数年は進むべきか守るべきか、恋愛のなかで繰り返し出あう課題は何なのか、どの時期こそ掴むべき好機なのか——こうした方向と律動にかかわる問いは、紫微斗数に預けるのがよいのです。その答えは、いまの風のなかにではなく、あなたの一生の星図の上にあるからです。

じっさい、多くの人はこの二つをこう使い分けています。ふだんはタロットで風を聴き、人生の大きな節目には、あらためて命盤の前に座りなおして、自分がいまどのあたりを歩いているのかをじっくり眺める。二つの楽器には、それぞれの音色があります。合奏は、互いを妨げないのです。

変わらない一枚に、読まれてみる

ただ、もしあなたの問いが、いちばん根本のたぐいのものなら——自分はどういう人間なのか、この一生の道はおおよそどんなかたちをしているのか、いまの低みは行き止まりなのか、それとも曲がり角なのか——そのとき必要なのは、もう一度札を引くことではなく、心持ちや手の運では変わらない、一枚の図なのかもしれません。

紫微斗数が差し出すのは、まさにそれです。それはいまのあなたの期待に迎合せず、何度問うても言い分を変えません。盤はそこにあり、千年の法度もそこにあり、いつ戻ってきても、同じ顔であなたを待っています。この「変わらなさ」は、心の揺れる日々にあって、それ自体が一つの安らぎです。

そして、この学問が最後に果たそうとするのは、あなたをうなだれて命に従わせることではありません。古(いにしえ)の人は「命を知りて、命に流されず」と申しました。命を知るとは、算出されたこの星図によって、自らの下地と時運の律動を見きわめること。命に流されずとは、見きわめたうえで、どこへ力を注ぐかをなお自分で決めることです。札は何度でも引きなおせますし、風はこれからも変わりつづけるでしょう。けれども、自分の星図を識った人は、変転のただなかを歩いても、心は定まっているのです。

いまを吹く風に耳を澄ませたあとで、ご自身の一生の星図も眺めてみたいとお思いでしたら、どうぞ無料でご自分の命盤を作成し、最初の一問も無料でお尋ねください——自分の星図を識った人は、変わりゆく風のなかでも、心定かに歩んでゆけるはずです。