紫微斗数とは何か——初心者のためのやさしい入門
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千年の昔、人は空を見上げて星を仰ぎ、筆をとってひとりの人生を一枚の命盤(めいばん)に書き留めました。千年を経た今もなお、人生の岐路に立つとき、自らのために紫微斗数(しびとすう)の盤を組んでみたいと願う人は絶えません。それは、昔の人が私たちより迷いやすかったからではありません。いつの世も変わらぬ問いがあるからです。私はどのような人間なのか、今この時に動くべきなのか、この道はあとどれほど続くのか。紫微斗数が今日まで受け継がれてきたのは、こうした言葉にしがたい問いを、静かに、ていねいに開いて語ろうとしてきたからにほかなりません。
一言で申し上げるなら、紫微斗数とは、人の生まれた時刻をよりどころとして、一生をひとつの「命盤」という図に写しとって読み解く、伝統の命理です。それは吉凶の定めをあらかじめ告げるものではありません。生まれ持った性情、めぐりあわせの調子、そして人生のさまざまな面における傾きを描き出し、自分自身を見きわめたうえで、より落ち着いて選びとれるように導いてくれるものです。
ですから、紫微斗数を知る第一歩は、当たるか当たらぬかを急いで問うことではありません。まずは、これがどのような学問で、どのような道理にもとづき、どこまで寄り添ってくれるのかを、静かに見定めることです。この幾つかが腑に落ちれば、この先に現れる数多(あまた)の星と宮に、目を回すこともなくなります。以下、まずはその来歴からお話しし、それがどのように組まれ、どのように読まれるのかを、一層ずつ紐解いてまいりましょう。
起源と受け継がれてきた道
紫微斗数の源は、五代から宋の初めにかけて生きたと伝えられる陳摶(ちんたん)、世に陳希夷(ちんきい)と呼ばれた人物に発すると申します。華山に隠れ棲み、術数に通じ、星曜(せいよう)と宮位の推しはかり方を一つの法として整えた、と言い伝えられます。とはいえ、この由来を正史のうちに確かめることは難しく、後の人々は「相伝」の二字をもって、誠実にこれを受けとめてきました。確かな名にすがるよりは、これが歴代の術者たちの積み重ねと補いによって形づくられた学問である、と認めるほうが、むしろ実相に近いのでしょう。
より確かに言えるのは、紫微斗数が明・清のころに次第に整い、体系も星曜も推しはかりの法も、この時期にまとまっていった、ということです。そして典籍が伝わるにつれ、その姿は落ち着いてゆきました。近代に入ると、この学問は台湾や香港でとりわけ重んじられ、深く研究され、広められてきました。数多くの著作と師の教えが絶えることなく続き、奥深い古法であったものが、少しずつ市井の人々の暮らしのなかへと入ってきたのです。
来歴を一つに定めがたいからこそ、紫微斗数はむしろ、長く流れる一筋の川に似ています。上流はわずかな口伝と、幾枚かの手写しの星盤にすぎなかったかもしれません。その流れに沿って、ある人は注を補い、ある人は説を立て、ある人は自らの人生のなかで繰り返し確かめ、そうしてようやく今日の大きさに至りました。このことは、私たちにこう気づかせてくれます。紫微斗数を、動かしがたい一枚の鉄板として扱う必要はない、と。むしろ、今なお理解され、確かめられ、用いられ続けている、生きた方法として向きあえばよいのです。
一枚の命盤の基本のかたち
紫微の命盤を一枚組むとき、その出発点となるのは、その人の旧暦(きゅうれき)の生まれ年・月・日・時刻です。これらがそろえば、法にしたがって星曜を配し、十二の枠に分かれた盤面を組むことができます。この十二の枠こそが、十二宮(じゅうにきゅう)です。
十二宮は、それぞれが人生の一面を受け持ちます。命宮(めいきゅう)は根本の性情を見る場、その他、財帛(ざいはく)・官禄(かんろく)・夫妻・遷移(せんい)・田宅(でんたく)などは、財、仕事、伴侶、外でのめぐりあわせ、住まいといった領域にそれぞれ対応し、あわせて一つの人生の完全な地図となります。星曜は、これらの宮のなかに落ちます。なかでも最も要(かなめ)となるのが十四主星(じゅうししゅせい)で、紫微・天府・太陽・太陰といった面々は、それぞれに性格を備え、盤を読むときにまず目をやる骨組みとなります。このほかにも吉星、煞星(さっせい)、さまざまな輔星(ほせい)があり、あわせて百を超える星曜が、盤面の明暗を幾重にも彩ってゆきます。
そして、この一枚の盤をほんとうに生き生きとさせるのが、四化(しか)——化禄(かろく)・化権(かけん)・化科(かか)・化忌(かき)です。四化は、生まれ年にしたがって特定の星曜を動かし、表には現れない一組の力のように、静止していた盤面に流れと消長をもたらします。
先天の骨組みを描くほかに、この盤にはもう一つ、時間の層が秘められています。十二宮のうち、命宮は盤全体の要であり、まずその人の根本を定め、他の宮はそれを取り巻くように順に開いてゆきます。そして同じ一枚の命盤から、より大きな年の区切りである大限(だいげん・十年ごとの運気)と、一年ごとの流年(りゅうねん)とにしたがって、段階ごとのめぐりあわせの起伏を、一層また一層と読み進めることができます。つまり盤面は、一枚に定められた全景であると同時に、歳月とともにゆるやかに開いてゆく長い巻物でもあるのです。先天の下地と後天の時運とが、つねに同じ一枚の図のうえで語りあっている——そう言ってよいでしょう。ここに挙げた一つひとつは、いずれものちに専用の記事でくわしくお話しします。今はまず全体の姿を見知っていただければ十分で、急いで覚えこむ必要はありません。
八字とはどう違うのか
よく尋ねられるのが、紫微斗数も八字(はちじ・四柱推命のこと)も同じく生まれた時刻を用いるのに、両者はいったい何が違うのか、という問いです。よりどころは同じでも、見つめ方が異なります。八字は、生まれた年月日時の干支(かんし)を取り、五行(ごぎょう)の生剋(せいこく)によって、その人の「気」を論じます。いわば、その人に備わる寒暖燥湿(かんだんそうしつ)の体質と、その移り変わりを感じとるようなものです。
一方、紫微斗数は、時刻を宮と星を備えた一枚の盤へと写しとり、宮位と星曜の組みあわせによって「象(しょう)」を論じます。いわば、場面と登場人物のある一幅(いっぷく)の絵を読むようなものです。たとえて言うなら、八字は気候図に近く、その人がおおむね寒がりか暖かがりか、補うのがよいか瀉(しゃ)すのがよいかを教えてくれます。紫微はむしろ都市の地図に近く、どの区画が感情で、どの区画が仕事か、そして各区画が今にぎわっているのか、ひっそりしているのかを標します。両者に優劣はなく、ただ道を尋ねる仕方が違うだけなのです。
ですから、この二つの学問は、互いに妨げあうことなく並べて見ることができます。八字が体質の下地を語り、紫微がめぐりあわせの場面を描く。一つは内、一つは外。それぞれに理(ことわり)が通り、あわせて見れば、かえって隅々まで見えてまいります。初めのうちは、どちらが優れているかを急いで分けようとせず、まずはそれぞれを知り、人を見る角度がどこで違うのかを、ゆっくり味わえばよいのです。
西洋占星術とはどう違うのか
紫微斗数はまた、西洋占星術(せいようせんせいじゅつ)としばしば比べられます。どちらも「十二宮」を説くため、うわべはよく似て見えるからです。けれども一歩深く分け入れば、その違いははっきりと現れます。西洋占星術の惑星は、天にある実際の星体と、それらが黄道(こうどう)上に実際に位置する場所に対応しており、推しはかるときには、日月や諸星が今どこまで運行しているかを、ほんとうに算(かぞ)えねばなりません。
紫微斗数の星は、これとは異なります。紫微・天府・貪狼(たんろう)といった名は星宿から借りてはいますが、実のところは一つの記号の体系であって、生まれた時刻にしたがい、定まった法によって配されるものです。天文の器械で観測できる実体の位置に対応しているわけではありません。つまり、西洋占星術が読むのは実際の天象(てんしょう)であり、紫微斗数が読むのは、人の営みのためにしつらえられた象徴の言葉なのです。十二宮の似かよいはうわべにすぎず、その底に流れる道理と来歴は、じつは二筋の別の道なのです。
この一層を了解すれば、両者のどちらが真でどちらが偽か、と争う必要はなくなります。二つはそれぞれ、異なる問いに誠実に答えているのです。一つは天上の諸星の実際の運行を問い、一つは人の世の境涯の象徴と対応を問う。そのどちらか一つを取って自らを照らせば、それで十分であり、無理に二つを通わせようとする必要はありません。
何に答え、何には答えないのか
それが何であるかを知ったなら、その分(ぶ)もはっきりさせておきましょう。紫微斗数が答えるのを得意とするのは、方向、時機、傾きにまつわる問いです。私はどの道を歩むのが向いているのか、この時期は静かにしているのがよいのか動くのがよいのか、私は恋のなかでどのような課題に出あいやすいのか。先天の性情とめぐりあわせの調子を見せてくれることで、選びとる拠(よ)りどころが一つ増え、うろたえが一つ減るのです。
だからこそ、盤に問うときの心持ちが、とりわけ大切になります。ただ「お金持ちになれますか」「この件はうまくいきますか」という一言の確答をもらいたいだけなら、たいてい落胆します。けれども、これを手がかりに自分をもう一分(ぶ)深く知り、目の前の境涯をもう一分はっきり見てとろうと願うなら、ほとんどつねに得るものがあります。それが差し出してくれるのは、一枚の保証書ではなく、自分自身とめぐりあわせを見つめるまなざしなのです。
とはいえ、それはついに宿命の判決書ではありません。命盤があなたに代わって日々を生ききってくれるわけではなく、変えようのない結末を差し出すわけでもありません。それはむしろ一つの言葉、自分自身を知ることを可能にしてくれる言葉に似ています。同じ一枚の盤も、異なる心持ちと行いに出あえば、まったく違う風景を歩んでゆくのです。
古(いにしえ)の人は「命を知りて、命に流されず」と申しました。これこそ、この学問の最も情け深い態度です。命を知るとは、自らの下地と今の境涯を見きわめ、どこが先天の難しさで、どこが力を注げる場所かを心得ること。命に流されずとは、見きわめたのちも、足もとの道はなお自らの足で一歩ずつ歩んでゆくのだと弁(わきま)えること。命盤が差し出せるのは、あなたに代わって決めることでは決してなく、目の前の選択をいま少し明らかに見わたせるよう寄り添い、一歩ごとに、心に確かなものを持たせてくれることなのです。
もしあなたも、ご自身のためにこの一枚を眺めてみたいとお思いでしたら、まずはご自分の命盤を組むところから始めてみてください。無料でひとつ、お尋ねいただけます。自分の下地を知れば、この先の道も、おのずといくらか落ち着いて歩んでゆけるはずです。